昭和46年01月30日 朝の御理解



 御理解 第54節
 「徳のない間だは心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 「徳のない間だは心配する。神徳を受ければ心配はない」御神徳というものはその様なもの。私共は御神徳を頂く為に信心をしておるというても良いと思うですね、金光様のご信心は。心配の無い生活。不安のない生活。それには矢張り不動のもの動かない。不動の信念とも申します。どの様ななら心配に成る様な事が起こってこないかと言うと、やっぱりあります。人生のいわば雨風と申しますかね。どんな時でもあります。
 けれど神徳を受けて参りますと。いや所謂不動の信念。確固たる信念が生まれてきます。ですから例えば人が青うなってた曲る様な事に、いわば直面致しましても、ほんなら心配をしないですむ。人間の真実の幸福というのは私はそれだと思う。皆さんもまぁ信心のあった時代あったりない時代、現在と言うものを思うて、そういう体験をなさる事があるでしょう。本当に不安である。心配であるけれども神様に心を打ち向ける。
 一心不乱に御祈念をさせて頂いておるうちに心が安らいでくる。安心が出来る。安心が出来ないけれども、お取り次ぎを頂く。お取り次ぎを頂いたら、心が安らいだと。安心が出来たというようなもんですね。まぁそれはいうならば、御神徳を賜物のようなものじゃ。だからそれが本当に、何時もどのような場合でも、そのような心の状態であれるという事。大変なことのようですけれども、やはり、それを目指す事が信心だと私は思うですね。「徳のない間は心配する。
 神徳を受ければ心配はない」所謂心配のない生活。そういうおかげを頂きたい。それにはねどう言う事にならねばならんかと。昨日午後からある教会の総代さん四、五名運転手の方とで五名。ご参拝になった。そしてある事を願われた。その方達に申しました。どうですかお宅あたりの教会では、今寒中修行があってるですが、そのお参りがどげな風ですかて言うたら、その五名の人が一人も朝参りをしよらん。
 総代さん方が。それで例えばほんなら、今願うて居られる様な事が願いが、本当の意味において、私は成就するとは思われない。そういう大きな願いをなさるなら。なさるほどしに矢張りその根本に、本気での信心修行がなされなければいけんのじゃないだろうかと言うて、お話をした事です。その時に私がお取り次ぎをさせて頂きよりましたらね、私がお芝居が好きですから、お芝居のことでお知らせ頂いたんですけれど。
 忠臣蔵の六段目。一力茶屋の段です。皆さん若い方はご承知じゃないかもしれまんせね。忠臣蔵ち言うと知ってますけれど、仮名手本忠臣蔵ですから六段目。あの勘平の女房であるところのお軽が、それこそ勘平さんの為に、身売りまでして勤めておるところへ、兄平右衛門が来合わせましてね、その由良之助にお供をしてきて、平右衛門がそこの一力茶屋で会う場面があります。
 そして里の所謂親与市兵衛が殺されたことやら、勘平が切腹して死んだ事やらを、その妹に伝えるわけです。お軽に伝えるところなんです。いきなりにその平右衛門がお軽にお前の命をくれと、いうもんですから、もうびっくり仰天致しましてね。けれどもねこれから兄が言う事をようと聞いてくれよと言うて、その申します。お前がね本当に一生孝行しようと思うておる、親与市兵衛殿は人手にかかって、あえない最後をとげられたんだと、びっくり致します。
 そん位な事じゃないお前が一生、又添い遂げようと思う勘平は、腹切って死んだぞと申しますから、もうそれこそもう珠の緒の切れんばかりにびっくり致します。そこん所に平右衛門が言う台詞がありますよね。「神の飾りが化粧しその日その日が送れども」ていうのがあるね。そなたは何も知らないなと。知らないと何が知らないかと。勘平さんに良い人でも出来たのかと言う申しますから、そんな浮ついた事じゃないぞと。
 実はこうこうだと、今申しましたような事を申します。そこでお軽がね、今まで命をくれと言われたが、そんなわけにはいかん。私にはまだ親与市兵衛があると。又添い遂げなければならない勘平さんがおられるのだと。そんなに簡単に命をやられるもんかと申しますけれども。それを聞いた後にです。もう生きて望みもないこの身体、姉さん要るならこの命を上げましょうという事になるのです。
 私そこんところをまぁそのお話をしながら、お取り次ぎをさせて頂きながら頂きましてね。はぁこの人達は、それこそ神の飾りが化粧してこそ、おられるけれども何も知られないなと思うた。本当のことが分かったら白紙になれるだろう。一生懸命になれるだろう。そこから生まれてくるおかげでなからなければ、本当なものじゃないのだと。まぁ他に色々頂きましたけれどねまぁそういう事を、私は思うてというてほんなら本当な事を教えたからと言うてです。
 とても分かりそうにもないから、まぁその程度のお取り次ぎさせて頂いて、帰られましたけれども。その本当なことというのはどう言うことか。今教団の中に色々なまぁ曲がり角とか色んなことが言われます、教団の非常時とも言われます。そういう例えば事柄がです。例えば人為的な人間的な工夫やら演出やらでね、とてもおかげになろうとは思われないからです。それこそ現代の金光教。
 それに神の飾りや、又は化粧してであって、まぁ人が見たらです。金光教はいわゆる上品な宗教だと。とまぁそういう定評がありますよね。その信心臭いところがないち言う訳です、金光教は。強引なところがない。実に知的である。いうならばいわゆる、道理に合うておるというような事柄がね。ですからそれをいよいよ、もっと言うならば信心のない人達でもです。そういう信心の姿というものを見て、感じられるようにあぁしたい、こうもありたい。そういう運動をしようという願いであった。
 そういう事じゃない。とても例えていうならばです。ある場合には強引であってもいい。ある場合には信心の臭いがぷんぷんしても良い。問題は真実いわば私共が助からなければいけん。又は、人が本当に助からなければいけない。そこのところのおかげを頂かせて頂くためにはです。それこそ私共が頭うから行く信心をせにゃ出来ん。はまらにゃ出来ん。一切全教一斉に寒中修行があっておるというのにです。
 ほんなら何処に私共は今寒中修行しとる姿があるかという事を、それすら出来ずしておいてから、そういう、例えば、例えば神の飾りが化粧したところで、何が役に立つものか、何も中身がなくて、どうして人が助かるか。なるほど信心のない人達が、そういう一つの宣伝に釣られてやってくるかもしれない。けれどもやって来て見たところが、宣伝と内容とが違うておったと言うことになったら、すぐ外れてしまうだろう。
 寒いと言うておるならです。大きな火鉢が用意された。そこまでは良いけれど、中に火がなかったら来たけれども、冷たいなら又外れていくようなもんだと。まぁ私はそんな風に申しましたけれども。分かられたか分かられないか知らんけれど、まぁ私そうだとこう思う。そこで私は今日は例えば「徳のない間は心配する。神徳を受ければ心配はない」と言われるほどしの徳を受けるという事はどう言う様な事かと。
 これは私がいわば一番難儀な時であります。一番修行の真っ最中という時でありましたが、もう本当に前にも先にも行かれんような状態の時があった。時に神様はね「死んだ気で、励め勤めよ徳も付く。人も助かる道も開ける」というお歌を頂いた。ほんなこと死んだ気になったら、どげなことでん出来ん事はないと思うてね。もう前にも行けないところをやらせて頂いたことがある。
 だから死んだ気ということは、どういう事かというと、勿論一生懸命という事でしょうけれどもね、私は白紙になることだと思うね。そして改めてね、私は昨日から一昨日にかけて、教祖のお言葉を皆さんに聞いて頂いておりますよね。それを改めて、このことの素晴らしいことに、気付かせて頂いております。昼お取り次ぎをもうこの事ばかりを、私は言うて、お取り次ぎさせて頂いておる。何事も神の理解承り。
 承服いたせば安心なり。皆さん色んな難儀がある。お参りをしてくる。ここで私がその御理解を説かせてもらう。はぁ先生そうでございますなぁと分かったら、神様が安心される、自分も安心がいくというのである。けれども心の中で、先生あげん言いなさるばってん、そんなわけにはいかん。そりゃそうかもしれんばってんと言うような思い方もする。それで神様も安心が出来ない。私共も安心が出来ない。
 だからいかに私の心の状態が白紙でなからにゃいけないかという事。小さい人間的な知識とか知恵とか。思惑といったようなものがです、どんなにつまらんものであるか、そういうものをまずすきっとする事。白紙になる事。願うならば白紙になって願え。お伺いをするなら白紙になってお伺いをせよ。という事になるのです。次に神仏共に喜ばれた。私共が、いわば神の理解を承り、承服する。
 はぁそうだと分からせて頂いて安心が生まれる。その事を神仏が喜ばれる。そういう心でいわば行じることは、神様が喜んで下さる事を行じるという事を、ここでは親大切、夫婦なかよう家睦まじゅう致し候とある。是はそういう神様がお喜び頂けれるという生き方をするという事だと思うですね。そんなでも今申しますように、親大切夫婦なかよう、家睦まじゅうという事が、いかに神様の心に所謂「信心は家庭に不和のなきが元」と仰るほどしの元を気付かせて頂くんですから、おかげになる訳なんです。
 次に何事も世話苦にすな、実意に致し恐い事もなし。どの様な事ありても逃げる事なし。何事も人を頼むな。人を頼むと言うなと神様からお知らせがある。是を一つ皆さんがね、どうでも是をこの様に体得出来れるおかげを頂いたら、今日の御神徳を受けられます。まぁ例えてです一番近い例で申しますと、幹三郎の病気の時なのでもそうでしたね。なに事も神の理解を承り、承服致しておったから私が安心しておった。
 まぁあの時分の事を、過ぎ去った後の事を言うと可笑しいですけれども、私は日に日にの御理解を、皆さんに聞いて頂いておるからその通りなんです。その私が安心しておる事をです。いうならば神仏共に喜ばれておられたと。実意にいたし恐い事なし、どの様な事ありても逃げる事なし。逃げる事なしと。私はその事から逃げようとはしなかった。勿論、本当に恐いとも思わなかった。嘘のようですけれども本当ですからね。
 もう最後の土壇場という、何日か前に小野先生が見舞いに行って、あちらの先生方から色々もういよいよ、百のものが九十九は駄目だと言われるようなその実情を、ここへ来て皆さんに話されました。私もそれを一番口に聞いた。聞いた時に私の心の中には、九十九駄目でも後一つあるじゃないかと。その一つが私の出る幕だと言った様な実感で、もう実にある意味で楽しかったです本当。私の出る幕だと思うたから。
 とても普通で出来ることじゃない。信心頂いておるおかげでです。それこそお徳を受けとるとは思われんけれども、心配なかったという事です。徳のない間は心配すな。神徳を受ければ心配はないと。神徳を受けたら、このようなものだと、一つの見本を私に見せてくださったんでしょうね。他の事に心配がないかとう言うと、やっぱり心配は何時も持っておりますから、まだまだ神徳を受けとるとは思われませんけれど、まぁ神徳とは、受ければこんなもんだと、見本を見せて下さったように思います。
 いかに信心の、いわばどの様なものかという事が理屈で分かってもです。そしてそれを理屈で分かった事をです、色々なそれこそ神が、化粧でいかに形をごまかしてもです、中身がなかったらいけません。けれどもです、本当の事が分かったらです。もう勘平さんも死んだ。お父さんも、親父さんも死んだと。そういう、例えば本当の事が分かったら、今までやれなかった命が、あげましょうち言う事になってくる。
 いわゆる今の流行りの言葉で言うと、命預けますということになる。全てが任せられる、神様にお任せするという事。同時に白紙になるという事。自分のいわば、浅い勉強とか、知識とか、というようなものを投げ捨ててです。神様のお心の中にこちらが飛び込んでいくという事。その飛び込んでいくという事がです、後にも前にも進めなかった中に、死んだ気にならせて頂いたら、いけん事はなかったという事。
 そこから徳も受けていけれる、人も助かって行く道も開けるのだと、今日の所謂神様はそのように私にお知らせがあったという事。成程とてもとても普通では、通り抜けられないところがです、おかげで通り抜かせて頂く事が出来た。私は徳を受けるというだから徳を受けるためには様々な修行があると言った様な事を、この頃から申しておりいますよね。色々に神様と愈々交流する事のための、色んな修行があるけれども、その根本になるものはです、やはり白紙になってかからなければ駄目だという事です。
 所謂お軽さんじゃないけれどもです。本当の事が分かったら命もいらないと言う事になるのです。いやいらないじゃない、命預けますという事になるのです。本当な事が分かったら。信心とはその本当な事を追求して行く事。それを心理と言う。その心理を追求していく、心理を求め求めして行くという事がです。所謂真の道を求め求めしていくという事になる。そのためのですね、所謂根本になる所がです。
 私共が本当に馬鹿のごと一つ素直にならなければならない、それが白紙になる事だと親先生が赤のものは白と言いなさる。はぁこりゃ白ですなぁと白ですなぁとそれ段々白になってくるそれが。という位にあらなければいけん。先生は是は赤ち言いなさるばってん是は白ですよと言う所にはね。所謂命預けたという事にもならなければ、いわば何にも知らないからそういうのであって。
 いわばおかげの頂き難い状態だけしか生まれない。それを人間の知恵力で、あぁしたりこうしたりしたらどうじゃろうかと、まぁその努力は、まぁ本当に涙ぐましいごとありますけれども、昨日私が聞かせて頂いた話等はね。本当に皆さんご苦労様と言いたいのですけれども。けれどもその根本のところにね、朝参りの修行すら出来てない人達が、それをいかに、あくせくとしたところで何になるかと、私は実は思うた。
 そしたらねあの広葉というのがあります、一つ葉とも言いますね。昔あれは勿論お花なんかに使いますけれど、おにぎりを包んで行くのに使いましたよね、あれがこういっぱいこうしこっておるとことね、それから今のなんかあのなんですかね、あの今のお弁当を作ってあるでしょう。なんですかビニールですか。なんかあぁいう風なもので出来ておるお弁当がありますでしょう。そのお弁当箱にそれをこう頂いた。
 いわゆるその丁度人工のもので、そのお弁当を作ろうと言うておるという事である。私共の生き方は何処までも自然。自然のものをそのまま使うてそれをお弁当にして作ろうというのが、私の生き方なんです。所謂自然を大事にするとか、成り行きを大事にするという事そういう自然そのもの。成り行きそのものを大事にして行くと言う様な生き方がね、そういう信心の稽古をさせて頂く所からです。私は何ていうですかね。
 自然の働き所謂神様の働きの、もう微妙極まりがない。もう本当に微に入り細に渡っての、神様の働きをです、身近に感ずる事が出来る。それをどういう風に申しましょうかね。日々にとにかく素晴らしいタイミングの中に生活をするというても良いでしょう。もう本当に神様のお計らいには恐れ入ってしまうという。そういう私が体験を頂いて行くからこそです。愈々どんな場合でも、驚かんですむわけになってくるのじゃないでしょうかね。「神徳を受ければ心配はない」成程神徳を受ければ心配は無い。
 それは、そんなら、不動の信念。確固たる信念を養うていく稽古を、させて貰わなければならん。それには、例えば、朝参りぐらいな修行は、もう修行のうちに入らんくらいな気持ちで修行させてもらうという事。成り行きを大事にして行くという事。不動の信念ということは、私は、あのお不動様というですね。お不動様が、何て言うですかね、右手に剣を持ち、左手に縄を持っておられますね。
 木のこんなようにあれはどういう事かというと、まぁこれは私の解釈ですけれども、剣は自分の心へ向けるものだと思うですね。いわゆる改まり。いけないところは自分で切って捨てるという事。縄は悪い事した奴を縛ろうではなくてね、自分自身を縛るものだと私は思うた。そういう例えば生き方からですね、不動の信念というものが生まれてくるです。同時に、いわゆる成り行きを大事にするといったような事。
 そこからいうなら本当の事が分かって来る。いわゆる本当の事が分かったらです。神様任せにならなければおられない。本当の事が分かったら、何時でも白紙でおれれる。そういう心で何事も神の理解を承りますから、一つ一つが成程成程と承服いたし。いわゆる成程成程と新しい、いうなら知識が身に付いて来る。その事が神仏も喜ばれる。そこから神様もお喜び頂けれる信心生活が営むことになってくる。
 いわゆる、親大切夫婦なかよう、家睦まじゅう致し候という事になって来る「何事も世話苦にすな」と。どのような例えば世話事が起こってまいりましても、こげな事は、家じゃ出来ませんよなどといわずに、それが成り行きであるならば、それを有り難く受けて行けれる、しかも実意に、それを受けて行く「何事も世話苦にすな、実意にいたし」その事は、恐い事もなし、どのような事ありても、逃げることもいらない。
 そういう生き方。そういう中から御神徳を受けて行く事が出来るとこう思うのです「徳のない間は心配をする」心配があるなら、まずお徳を受けていない事実を自分で分からせてもろうて。いよいよ神徳を受ければ心配はないという、心配のない、不安のない、どのような場合でも、確固たる不動の信念を持って、突き進んで行けれる、信心を身に付けたいと思いますね。お互い。こりゃ私を含めての事。
 皆さんも願いとする所は、そう言う所を、信心のいわゆる根本の願いとして、昨日から頂きますように、私共が痛い痒いがあっては、家業出来難い。それは牛馬の事にいたるまで、どのような事でも、人事百般実意を持って本気で願う。願っておかげを頂きながら、信心の根本を間違えないように、信心を進めていかなければならんと思うですね。
   どうぞ。